鳥羽水族館 発行『SUPER AQUARIUM』
僕は大阪湾を望む堺の浜寺という海辺の街で育ちました。学校へ行くよりは海で遊ぶ方が好きな子供でした。水中めがねとエスロンパイプを熱で曲げて作ったシュノーケルが唯一の遊び道具です。水中で魚たちを見つけて追いかけたときの興奮は今でも忘れられません。
海岸沿いの畑には灌漑用の大きな風車がたくさんありました。風を受けてポンプを動かし水を汲み上げている様子を一日中飽きずに見ているような子供でもありました。今住んでいる神奈川県の大磯もやはり海辺の街です。僕には潮風が必要なのかも知れません。
育った家には古い柱時計があっていつもカッチンカッチンという大げさな音と共に振り子が動き一時間毎に時を打つ。兄が大事にしていたラジオはパチンとスイッチを入れ、裏から箱の中を覗くと真空管がボーと光り始めシャーという雑音の中から人の声が聞こえてくる。これらは幼かった僕にはとても不思議で時計やラジオの中にこびとさんがいて動かしているのかなと思うようになっていました。
その頃の不思議な気持ちは大人になっても頭のすみに残っていて魅力的な機械物にに出会うとその中にあのこびとさんの気配を感じてしまいます。時計や機械の中を覗いてみたい、こびとさんの正体を知りたいという好奇心からでしょうか、家じゅうのラジオ、時計、カメラ、蓄音機やおもちゃを修理すると言っては分解して覗き、組み立てようとしては失敗し、バラバラになった部品を眺めて途方にくれる日々。
ところがそれを繰り返していくうちに僕はそれらの部品や針金などを使って何かを作り始めていました。僕の手は機械たちとすっかり仲良しになりました。動くもの、動きそうなものを作りたいとどうしようもなく思ってしまいます。そしてそう思っているのは僕というよりは僕の手のようでした。
今僕はカラクリンという動く造形物を作っています。カラクリンはその中に組み込んだモーターや歯車のからくりがよく見えるように作ります。シーラカンスがいます。大小さまざまな魚たちがいます。貝、船などいろいろあります。みんな翼を持っています。
そしてそこにはいつの間にか小さな乗組員が乗るようになりました。彼らはカラクリンを動かすために漕いだり、望遠鏡で偵察したり、いろいろと働いています。なかには楽器を演奏したり、歌ったり、ぼんやりと考えているような乗組員もいます。その乗組員たちはホネホネのやせっぽちでユーモラスな顔をしています。僕は彼らをボンフリと名付けました。
ある時、ボンフリくんにおもちゃのトンカチやペンチを持たせてみました。あまりによく似合ったのでボンフリくんたちがシーラカンスを作る工場を作品にしてみました。すると、そこで働いているボンフリくんたちがまるで本当に生きているような感じがして作った僕もちょっとビックリしました。
子供の頃、大人になったらピノキオを作ったゼペット爺さんのような生き方をしたいとボンヤリと思っていました。今仕事場には材料を切ったり、叩いたり、穴をあけたりする道具や機械、古い時計やカメラの部品や歯車、海から拾ってきた流木や波に晒されたガラス、友人がカラクリン作りに使ってと届けてくれた何だかよく分からないいろいろな物たちが溢れています。作りかけのカラクリンもそこらじゅうにいっぱいです。片付けるのが難しいものばかりです。
いつも散らかっていて家族にはぼやかれていますが僕はいたってごきげんです。他人から見ればガラクタと思われそうな物でも大好きな物たちに囲まれて、ボンフリくんがいて、手を動かしているとユーモラスな動きで僕を笑わせてくれるカラクリンがどんどんできてきます。そうやってできたカラクリンをいろんな人に見ていただいて面白いと言ってもらえれば嬉しいですし、ラジオの中を覗いたときのあの不思議な興奮を味わってもらえれば大成功です。
そういえばいつの間にかカラクリンの中に登場するようになったボンフリくんは、ひょっとしてあのこびとさんかも知れないと思うことがあります。会いたいと願っていたこびとさんは実はボンフリくんになってカラクリン作りのパートナーとして此処にいてくれるのでしょうか。
昔と今を比べてみると身の回りの物たちが変わってきました。例えばラジオを分解してもプリント基板にくっついた小さなパーツが出てくるだけで視覚的な面白味が少なくなりました。カメラしかり、時計しかりです。
精巧にできていて性能も良いのですが、生産性、合理性ばかりが強調されていて、性能がよい分、壊れたとたんに魅力が薄れゴミとなって捨てられてしまいます。役に立たなくなると捨てられるような時代はちょっと淋しい気がします。
僕はこれからもボンフリくんと一緒にカラクリンを作っていきます。のんびり楽しく生きて行けたらいいなと思っています。